2009年06月16日

プデチゲ(部隊チゲ)は、韓国のチゲの一種

プデチゲ(部隊チゲ)は、韓国のチゲの一種。肉、野菜、豆腐などといった一般的なチゲの材料と共に、ソーセージ、スパムに代表されるランチョンミート、インスタントラーメンといった食材を辛味のスープで煮込んだ、大衆的料理である。

在韓米軍部隊が多い京畿道議政府市が本場とされ専門店が軒を連ねるが、その由来には諸説があり、朝鮮戦争中やそれ以降の混乱期に在韓米軍部隊からの援助物資・放出物資を利用して作られたとも、韓国軍部隊の若い兵士が共同生活をする中で広まったともいわれる。1960年代に、おでんを売った店でおつまみで売ったのが始め。初期には炒め料理だったが、現在の姿に変化した。現在では外食メニューとして一般的であり、日本の韓国料理店でも提供するところが多い。

作り方 [編集]
肉系のスープに唐辛子粉・キムチなどで辛味を加え、ここで豚肉などの肉、白菜・ホバクなどの野菜、豆腐やトック(韓国餅)、そして特徴であるハム・ソーセージ、缶詰のランチョンミート、インスタントラーメンなどを煮込む。プロセスチーズを入れるレシピも散見される。
バンジージャンプ
地球温暖化
体外離脱
白血病
花見
VDT症候群
元素周期表
油彩画
民話
翻訳
賃貸借
水上スキー
漢方薬
スキー
心療内科
妖怪
血液学
近畿地方
ウエストナイル熱
中国地方

韓国では、基本的にキムチチゲと近い料理のため、ハム・ソーセージ・ランチョンミートなどの象徴的な材料さえ入れば、後は何を入れても「プデチゲ」と見なされる事が多い。

最近の専門店ではラーメンは「締め」で入れるのではなく、最初から投入されるのだが、そうでない店もある(本場である議政府市の穴場的な店では締めで入れることが多い)。

提供方法 [編集]
キムチチゲ、テンジャンチゲなど多くのチゲ類は、一人分の量の小鍋で供されているが、プデチゲは日本の鍋物のように、食卓の中央の大鍋から皆で取り分けて食べるのが一般的である。

2009年05月30日

徳川氏

徳川氏(?川氏、とくがわし)は、徳川家康が創始した日本の苗字。信憑性に乏しいが、系図上では新田氏系得川氏の末裔ということにされている。発祥の地は、上野国新田郡得川郷(現・群馬県太田市徳川町)とされる。
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徳川氏は、徳川家康が創始した苗字。系図によると、ルーツは三河国(愛知県)の在地領主の松平氏に婿養子に入った時宗の遊行僧と伝えられる徳阿弥である。浪人となり、大浜称名寺[1]で開かれた連歌会での出会いが信重の養子に入るきっかけと伝えられる(父祖の地上野国新田郡徳川郷の時宗寺院、徳川満徳寺は後に縁切寺とされた)。還俗して松平親氏と名のったという。しかし、諸国を流浪する遊行僧だの、入り婿に入っただのという設定は、所詮本来無関係な新田氏と松平氏を系譜上つなげるために、おそらく家康の代に唱えられた創作に過ぎない。要するに親氏以前の確かな系譜はわからないのである。松平親氏を初代とする松平家九代(安祥松平家六代)の家康が起こした親氏流松平氏嫡流である徳川将軍家(徳川宗家)のほかに徳川姓を許されるのは、家康直系の子孫(親藩)のうちでも特に徳川御三家(尾張家・紀州家・水戸家)、御三卿(田安家・一橋家・清水家)およびこれらの後嗣のみであり、これらの家に養子として入る者も家康の男系の子孫たちであった。

2009年04月27日

蛸壺

蛸壺(たこつぼ)は、タコを捕獲する目的で漁師が使う壺で、明石がその発祥の地といわれる。材質は素焼きの陶器が主流であったが、近年はプラスチック製なども見られる。

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蛸壺は主に横にして使うため、多くは胴に平らな部分がありカマボコ型になっている。これは潮の流れなどの影響を受けないようにするためである。古くは首の部分のくびれた単純な素焼きの壺が用いられたが、現代では普通は素焼きの円筒状の壺の側面にモルタルなどで加工することによってカマボコ型にし、同時に重量を持たせている。

タコは体を保護する固い殻などを持っておらず、身を守るため普通、海底の沈み磯(岩場)の中に潜み、潮がゆるくなる時間帯を見計らい岩場から出てきては砂地などでイシガニや小魚、貝などを短時間で捕獲するが、潮が変わると慌てて住処に戻ろうとする。隠れる場所の少ない砂地はタコにとって危険地帯であり、ときにマダイなどの餌になることも多く、そこに絶好の隠れ場所があればタコはこれ幸いと入ってくる。海底から蛸壺を引き上げる際も、壺から逃げるタコは滅多におらず壺の中でじっとしている。これが蛸壺漁の原理である。

マダコもイイダコも同様の原理で捕獲できるが、小型のイイダコには二枚貝の貝殻を左右対にして蛸壺の代わりに使うこともある。イイダコは、岩礁ではなく砂泥質の海底で左右の殻のそろった二枚貝の貝殻に入り込み、腕の吸盤で閉じて棲家にしたりそこで産卵したりする習性があるためである。

蛸壺漁は非効率であるため現在はほとんど行われておらず、蛸壺発祥の地といわれる明石でも蛸壺専門の漁師はたった2人といわれる。通常の漁法である網漁ではタコの体が傷付き傷みやすいため、蛸壺で捕獲されたタコは「幻のタコ」と珍重され地元の料亭、割烹などに人気があり、市場には出回らないといわれる。

2009年04月10日

全長の長い楽器(約70cm)

フルートはかなり全長の長い楽器(約70cm)であるため、全体を三分割して保存・携帯する。 歌口(吹き込み口)がある部分を頭部管、一番長い部分を胴部管、一番短い部分を足部管と呼ぶ。 頭部管を挿入する長さを変化させることにより全体の音高が変わるため、楽器が分割構造になっていることは、他の楽器とピッチを合わせる(チューニング)場合にも重要である。

頭部管は、歌口の部分で内径17mm、胴部管と接続する部分で内径19mmの円錐形である。歌口に近い方の端がヘッドスクリューと呼ぶ部品によって塞がれている。管内の歌口に近い位置に反響板があり、ヘッドスクリューと連結されている。コンサート・フルートでは反響板の位置は歌口の中央から17mmが適切であり、ここからずれているとピッチに支障がある[1]。歌口は楕円形ないし小判形(角の丸い矩形)で、音源としてエッジトーンを発するためにある程度の高さ(約4.5 - 7mm)を持っており、木製など管そのものに厚さがある場合は管厚を利用し、また金属製の場合にはライザーと呼ばれる短管を介してリッププレートを取り付けて歌口穴を形成する。歌口部分がある程度の外径を持つことは、吹奏にあたって下顎に当てた際の安定性の確保の点からも重要である。歌口の形状や大きさは音色・音量・発音性などに影響があり、楽器メーカーによって異なる。また同一メーカーでも、いくつかの歌口形状の頭部管を製作している場合がある。
^ フルート用掃除棒には通常、反射板の位置を確認するため一端から17mmの位置に目印が刻んである。
胴部管は円筒形で、標準的なコンサート・フルートの場合、頭部管に近い位置に比較的小さなトーンホールが3つと、それ以外に管の内径 (19mm) とほぼ同じ大きさのトーンホールが10個、管体上面および側面にある。トーンホールが指で押さえられないほど大きく、またその数が指よりも多いため、一部が互いに連結されたキーシステムによってトーンホールの開閉を操作する。キーの裏側にはタンポと呼ばれるパッドがあり、トーンホールを閉じた際の気密性を確保している。

C足部管とB足部管 [編集]
そもそものフルートはD管であり、その低音域を拡張する目的で後に足部管を継ぎ足した姿が標準的な現在の姿になったのであるが、現在は移調楽器としてみなされてはいないものの、古来の姿のまま足部管を持っていないピッコロやフラウト・トラヴェルソの最低音がD音であるのは、その名残である。

現代のフルートにおいては足部管が標準的に使用されているが、足部管は胴部管と同じ内径の円筒形で、3つないし4つのトーンホールを持つ。そのトーンホールが3つの場合はC足部管と呼ばれ、そもそもの最低音D4から下部に拡張された最低音はC4である。トーンホールが4つの場合はB足部管(日本ではドイツ音名に由来してH(ハー)足部管(H-Fuß)と呼ぶ場合もある。アメリカの楽器メーカーの場合はB foot jointと表記)と呼ばれ、そもそもの最低音D4から下部に拡張された最低音はB3である。B足部管を用いると全体の音色はやや太く強めになるといわれ、リングキーにする場合も多い。また、高音域が安定する(逆にいえば変化をつけにくい)ともいわれている。B足部管を用いることによって一部の運指[1]は影響を受ける。

^ 標準的なC7の運指、およびいくつかの替え指とトリルの運指がこれに該当する。

タンポ(パッド) [編集]
もっとも一般的にフルートに使われているタンポは、フェルトにフィッシュスキン(動物の内臓の皮から作られているものもフィッシュスキンと呼ばれる。)を巻いたものである。トーンホールを容易に塞ぐことの出来る点、響きを止めない点、湿気や水分にも極端に反応しにくい点等から上記の材質が一番優れている、というのが使われる理由である。これは金属のフルートをT・ベームが開発した時代から変わっていない。素材に関しては現代においてあらゆるもの(ゴム、シリコーン、コルク等)が実験されているが音色、扱い、加工等問題の面から未だフェルトを超える材質が見つからないと言うのが現状である。 タンポで有名なメーカーとしては「ストロビンガー・パッド」を開発したアメリカのストロビンガー社がある。

カバードキーとリングキー [編集]
カバードキー(クローズドキー、ジャーマンモデル、ジャーマンスタイル):キーに取り付けられたタンポでトーンホール全体をふさぐのに対して、リングキーの楽器ではトーンホール上に指が置かれる5つのキー(右手の人差指、中指、薬指、左手の中指、薬指)に穴があいており、通常はキーとともにその穴をふさいで演奏する。
リングキー[1](オープンキー、オープンホールシステム、フレンチモデル、フレンチスタイルともいう):特徴は軽く明るい音色である。穴をふさぐ程度を変化させることによって、ポルタメント、微分音程などの技法が楽に演奏できるようになるほか、ピッチ調節などのための替え指もカバードキーより多く利用できる利点があるが、穴を正確にふさがなければならないため、手が小さい場合には演奏が難しい場合もある。また重音のための特殊な運指の幅も大きく広がる。
^ リングキーという呼び方は本来クラリネットやオーボエにあるような、細くてパッドを含んでいないキーのことを指し、フルートに使われているものは厳密には「パーフォレーテッド・キー (perforated-key)」と呼んで区別されるが、一般的にはフルートの場合もリングキーと呼ばれている。

インラインとオフセット [編集]
フルートの管体には多くのキーが並んでるが、胴部管上側面のキーがすべて一直線に並んでいるものを「インライン」、左手の薬指にあたるキーが外側(左腕に近い方)に少しずれているものを「オフセット」と呼ぶ。ベームが製作した楽器はすべてオフセットであり、より楽な手の形で操作することが可能である。オフセットは構造的にシンプルで、メンテナンスもインラインより容易となる。また、笛のほぼ中心に座金、ポストを半田付けするため、インラインに比べ、多少の響きの損失があるとする見方もある。一方、インラインの楽器はリングキーに多く、見た目は美しいが、正確にキーを押さえるために左手薬指をオフセットの場合より多く伸ばさす必要があるため、手が小さい奏者には向いていない。インラインの楽器の方が、製作する際の部品点数は少なくなるが、同一軸に配置されるキーの数が多いためメンテナンスはオフセットに比べ面倒である。

Eメカニズム [編集]
「Eメカニズム」「スプリットE」は、第3オクターヴのホ音 (E6) が楽器の音響学的構造から出しにくく、またピッチが高い場合が多いため、これを解消するために考案された機構である。一般的なEメカニズムは、キーシステムの追加によりE6の運指で閉じるキーを増やすもので、E6の発音およびピッチは改善されるが、特定の換え指およびトリル運指が使えなくなる。また、楽器がわずかに重くなるため、音色に影響するという意見もある。ドイツ系の奏者、メーカーのフルートに装備されることが多く、逆にフランスではEメカニズムの音響は不自然とされ一般的ではない。ドイツの古いメーカーには通常のEメカニズムよりも更に多くのキィを塞ぐ「ダブルEメカ」というシステムも存在する。

メーカー、オフセットかインラインか、ピンありかピン無しか、ブリッジが外側にあるか内側にあるか、によりシステムが異なるため一口にEメカニズムと言っても様々である。

通常Eメカの装備されていない楽器には、キィポストの不足による耐久性の問題、外観を損なう、改造費用等の問題等の理由からEメカを後付けする事は難しい。ユーザーの「Eメカの後付け」発注を前述の理由から断固拒否するメーカーもあれば、後付け工事を行っている所もある。その見解は各メーカーの方針によって様々である。

楽器メーカーによっては、同様の効果を得るためにキーシステムの追加ではなく特定のトーンホールを小さく(もしくは半円形に)する方法を採用している場合があり、これを「ニューEメカニズム」「Lower G insert」「G doughnut」と呼んでいる。この方法では、使えない運指が発生することはほとんどないものの、第1・第2オクターヴのイ音 (A4, A5) のピッチに影響する場合がある。

また、キーカップを押さえるレバーを途中で分割、可動式にしEメカニズムのオン・オフを切り替えられるようにしたクラッチ式Eメカニズム(Eメカニズム・ヒンジ)も存在する。

同様の理由で第3オクターヴの嬰へ音(F♯6)も音響学的構造から問題を抱えている。しかしこれを回避するためのF♯メカというものは構造、耐久性等の理由から未だ各メーカーとも商品化できていない。

むろら バイラ プラズマ スプロー ディスト ラリー シリンダー ペツォ メイドカ 検索いふ スワン マンサク アーモンド オーバー カミソール セルフレ ワイウク 氷の世界 リット ジャムパン マンナ ロファ ターニュ トウチク ゴデチア ぽっぽ 幸せ ハードカレ キューム パイソオ セクレ リファンド お猿岩 鳳仙花 スタート マテハン めんか キャンベラ タメ口 ブリーフス シオン 最新検索 アフレコ モダンジ ストマイ ライン フローベ ウィザード ちとう ディエフ

2009年03月26日

ファウンデーション (服飾)

ファウンデーション (英語:Foundation、仏語:Fond de robe) は、英語の「ファウンデーション・ガーメント (Foundation Garment)=基礎衣類」の略で、補正のための下着を意味する。衣類の下に着用して、ボディラインを整え、衣類の美しいシルエットを造り出す下着の一種である。現代の日本では、ファンデーションとも呼ぶ。

ファウンデーションは体型補正下着であり、主として女性用下着について言われる。衣類を着用したとき、衣類がぴったりしたものだと、身体のラインが外部より窺えるが、このように外見に現れる衣類のシルエットを美しく整える目的がある。従って、どのような体型が美しいと考えられるかによって、ファウンデーションの補正の目標が違ってくるのであり、また身体のどの部分を補正するかでも、違った種類のファンデーションが考えられる。

歴史 [編集]

古代 [編集]
ファウンデーションとしては、コルセットの歴史がもっとも古く、紀元前15世紀から10世紀頃の古代ギリシアの絵には、ウェストの部分を細く絞った服装の男女が見られる。古典ギリシアのキトンや、ローマのトゥニカ(チュニック)は、ゆったりした、布を身体に巻き付け、全身を覆う衣類であったので、このタイプの衣服が一般であるとき、体型補正の下着は、特に必要とされなかったとも言える。

しかし乳房部分については、古代ギリシアの女性は、ゾナと呼ばれる一枚布を胸に巻いていたことが知られる。乳房が堅くしまって、垂れていないことが女性の若さとも考えられたので、胸を補正していたと言える。

中世・近世 [編集]
軍人は古代より、活動に適した服装を選ぶのであり、それは古代ギリシアのキトンや、その上着とも言えるヒマティオンのような、布が広がり、流れるような衣類では困った。ギリシアでもローマでもそして西欧中世においても、戦闘する軍人は鎧を纏うのが普通で、それは身体にぴったりと合ったものが好まれた。

中世西欧でコルセットと呼ばれた衣服は、男女共に使用した、胴の部分で身体にぴったりと合う、外衣であり胴衣であった。今日のコルセットは、16世紀頃より、女性の衣服として、フープスカートと呼ばれる、胴から下がチューリップのように、あるいは釣鐘のように広がった衣装が流行し始めてからである。

初期のフープスカートは、ファーズィンゲールと呼ばれる、腰のすぐ下に巻き付け、ヒップを強調するアンダースカートの一種を付けた上に装着したが、このとき、胸の下からヒップまでの、胴の部分のラインが一つの魅惑のポイントとなった。胸の下から胴の部分を締め付け、ウエストを細く、優雅なラインに補正する下着が、コルセットであった。

元々、女性がウエストを細く見せるため、腰に布を巻いていたのは、12世紀頃より見られる習慣であったが、イギリスでは、大陸のコルセットと並行して、17世紀頃に、ステイズと呼ばれる胴部を細くする補正下着があった。ステイズの原形は15世紀頃にすでにあり、左右見ごろに分かれた張り骨のステイを、身体の前で合わせ、紐で二つをまとめ、締め上げることで、胴の形を作った。

コルセットはイギリスのステイズと同様、初期の頃は、クジラ骨や鋼鉄を芯使って、胸部下から腹部までを覆い、着用した後、紐を締め上げることで、腰を細くし、また胸部下からウエスト、ヒップへのラインを流れるように美しいものに整えた。19世紀初期には、コルセットは、腰を覆うように、下に長くなり、更に、19世紀半ばには、ガーターを吊り上げる靴下留めが付属したタイプが登場した。

ライバ デッサン シーソーゲ ニーメイ ピーツ ハンチョウ リチャー ムース ディー ガイドモフ サプライズ トドマ シャベル バスレーン ローラー きざらし ヤコブ 風雷坊 コムサ プラトン シッダー ワンマ ガスマス ユーコ タウン憂山 フィナス フラワー 月のうさぎ ボリー フィア プロジェク シャム プレー ロブノー フレア シャフト モニカ シエラ キチン リング ビーエス ローシルク リーク スペード イマン バスガド サーチ予言 フラスコ スカルプ ジョイント

2009年03月11日

ランス・オ・メドー

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ランス・オ・メドー(L'Anse aux Meadows)は、カナダ東部のニューファンドランド島最北端にある考古遺跡で、1978年にユネスコ世界文化遺産に登録された。語源はフランス語で「くらげの入り江」を意味する L'Anse-aux-Médusesから来ている。[1]ランソメドウズとも。

1960年、ノルウェー人の探検家ヘルゲ・イングスタッド(Helge Ingstad)とその妻で考古学者のアン・スタイン・イングスタッド(Anne Stine Ingstad)が発見した。
グリーンランド以外の北アメリカで、唯一ヴァイキングの入植地として確認されている遺跡である。長年にわたり考古学調査が行われており、クリストファー・コロンブスのアメリカ到達から遡る事500年以上前の住居や道具などが出土した。居住地には北アメリカで最初にヨーロッパ人が作った構築物が含まれている。一般には、西暦1000年ごろヴァイキングの航海者レイフ・エリクソンが到達した、半ば伝説とされる土地「ヴィンランド」だと考えられている。

ランス・オ・メドーの入植地は少なくとも8つの建物からなっている。鍛冶と溶鉱炉、船作りを支えた製材所なども見つかっている。最大の建造物は、縦28.8m、横15.6mの床面積があり、複数の部屋からなっていたと思われる。

10世紀から11世紀のグリーンランドやニューファンドランドの気候は21世紀現在よりも温暖だったとみられる。レイフ・エリクソンの航海について詳しく書かれたサガ(『グリーンランド人のサガ』および『赤毛のエイリークのサガ(赤毛のエイリークルのサガ)』)によれば、986年にビャルニ・ヘルヨルフソン(Bjarni Herjólfsson)がアイスランドからグリーンランドに渡る途中、地図もコンパスもない航海で嵐に襲われ、グリーンランドを探して西へ向かっていたところ偶然森に覆われた陸地を見たという。10年後、この話を聴いたレイフはビャルニの船を使い、35人の仲間とともにその土地へ向け出航し、葡萄と鮭が豊富で冬でも霜の降りない土地に着き、木の少ないグリーンランドに多くの材木を積んで帰ってきたという。ランス・オ・メドーは、

最初の宿営地
先住民たち(スクレリングと彼らは呼んだ)に追われた後に作った宿営地
サガには出てこない宿営地
のいずれかだと推測されている。

サガはさらに、1010年ごろのトルフィン・カールセフニ(Thorfinn Karlsefni、トルフィン・カールセフニ・トールズソン)による入植の試みにも触れている。トルフィンに率いられた135人の男と15人の女はヴィンランドへ渡り、レイフの使った宿営地(おそらくランス・オ・メドー)に住み、ここを入植地とした。この入植者の中に、赤毛のエイリークの私生児でレイフ・エリクソンの異母姉妹にあたるフレイディス・エイリークスドティール(Freydís Eiríksdóttir)がいたという。彼らはスクレリング(おそらく、アメリカン・インディアンのベオスック族)たちと交易したがやがて対立し、グリーンランドへ撤退した。サガに出て来る入植地とランス・オ・メドーの関連については確認されていないが、ランス・オ・メドーの地が西暦1000年ごろのノース人の入植地であったことは確かである。

ランス・オ・メドーは、グリーンランドと、ランス・オ・メドーよりさらに南の入植地(セント・ローレンス湾南部周辺)との中継地だった可能性や、グリーンランドに住んでいたノース人たちの越冬地だった可能性も指摘されている。[2]ここが居住地として使われたのはせいぜい2、3年だった。文献の研究と考古学的研究の双方から、先住民との関係悪化が放棄の原因と見られている。女性をめぐるノース人と先住民の争いや、思わぬ悪天候も放棄の理由として示唆されている。

ランス・オ・メドーは、アルゴンキン族の間にあるサグネ王国の伝説(Kingdom of Saguenay、毛皮と金属をたくさん持った金髪の民族の国)ともされているが、推測の域を出ない。


2009年02月22日

グリーンランド語

グリーンランド語(Kalaallisut, Greenlandic Inuktitut)はエスキモー・アレウト語族の言語の一つ。グリーンランドのカラーリットによって話されておりカナダのイヌクティトゥット語などと同族である。抱合語で能格を持つ。西方言の「Kalaallisut」、北方言の「Inuktun」、東方言の「Tunumiutut」があり、話者数ではKalaallisutが5万人と群を抜いており他のエスキモー・アレウト語族の全言語の話者よりも多い。学校などで学習するのはこの西方言である。

ラテン文字を用いる
キャン ふかがわ プルート てっさく はだいろ バーモ ナローボ シーケン ぱぱいあ リナリア デッド トッカータ あまぎ セレクション チャート マグマ クサノオ レンチ ブッキ カネノナル フェース プロップ くけい テク ぶうぶう ゴロ シーソー おはじき ナップ タイダイ ワンセ タイピン マスコット ロード ワイマ ニチニ コカトリ ダナキ フリーラ ホンコン ミング ノーマ タミフ リトル バッテ スクエア カアト イソ次世 ミー スター

母音
a,i,u,e,o×長短の10種があり、長母音は母音字を二つ書く

a
aa[a:]
e
ee[e:]
i
ii[i:]
o
o[o:]
u
uu[u:]

子音
()の字はデンマーク語の人名、借用語に用いられる

(b)
(c)
d
f
g
h
j[j]
k
l
m
n
p
q[q]
r
s
t
tl[tl]
v
(w)
(x)
(y)
(z)
(æ)
(ø)
(å)

旧字
1973年の綴りの改訂の前は á,â,ã,ê,ô,ú,û,ũ,í,î,ĩ,k?が用いられた。

補足
グリーンランド語は、カラーリット語とも言う。

2009年02月06日

考古学(こうこがく)は人類が残した痕跡

考古学(こうこがく)は人類が残した痕跡(例えば、遺物、遺構など)の研究を通し、人類の活動とその変化を研究する学問である。考古学という言葉自体は明治初期に古き物を好むという意味で好古と記されていたが、古きを考察する学問だという考えからシーボルト次男ハインリッヒ・フォン・シーボルトが著書「考古説略」において「考古」という文字を使い、考古学という言葉が日本に定着した。文字による記録以前(有史以前)の人類についての研究が注目されるが、文字による記録のある時期(有史以後)についても文献史学を補完するものとして、またはモノを通して過去の人々の生活の営み、文化、価値観、さらには歴史的事実を解明するために文献以外の手段として非常に重要であり、中世(城館跡、廃寺など)・近世(武家屋敷跡、市場跡など)の遺跡も考古学の研究分野である。近代においても廃絶した建物(汐留遺跡;旧新橋停車場跡など)や、戦時中の防空壕が発掘調査されることがある。
スノー モヘア サイトシス ネグロ ノンフ バルカ バチス ほうじゅん フラー レンズフ ラリア だるま ネコヤ ストリ ステッキ クスノキ サーベル シシウド スタジ レトリック ハイカラ マジッ ローレル シンデレ 交響曲 ブランク ウバイ リアル ブレス ゲイン ガイドヨニ ギアナユ パール ずきん テロップ パイレ ロコ リスボ ジャンク 冬中夏草 女神 ジャンプ亭 ケープ ノーダ オーバー フィアン イカの石 コロラド おみたま おもちゃか

考古学は、遺物の型式的変化と遺構の切り合い関係や前後関係による層位から出土遺物の通時的変化を追う個々の遺跡の編年を縦軸とし、横軸に同時代と推察される遺物の施文技法や製作技法、表面調整技法などの比較を通して構築される編年論を基盤として、遺物や遺構から明らかにできるひとつの社会像、文化像の提示を目指している。

アメリカでは考古学は人類学の一部であるという見解が主流であるが、日本では従前より歴史学の一分野とみなされる傾向にあり、記録文書にもとづく文献学的方法を補うかたちで発掘資料をもとに歴史研究をおこなう学問ととらえられてきた。ヨーロッパでは伝統的に先史時代を考古学的に研究する「先史学」という学問領域があり、歴史学や人類学とは関連をもちながらも統合された学問分野として独立してとらえられる傾向が強い。

考古学の歴史
考古学は比較的新しい学問であり、オーガスタス・ピット・リバーズやウイリアム・フリンダース・ペトリらによって組織的な研究が始められたのは19世紀である。20世紀にはモーティマー・ウィーラーらに引き継がれた。

日本では、動物学者であったエドワード・モースが1877年(明治10)大森貝塚の調査を行ったのが、日本近代考古学のあけぼのとされる。しかしモースの教え子が本来の専攻である動物学に進んだため、モースが科学として開いた近代考古学は順調に進まなかった。第二次世界大戦が終わるまで日本の歴史学は、天皇制国家権力の厳しい監視下にあった。なかでも考古学は、皇国史観の歴史と真っ向から対立する客観的資料を学問の基礎におくため、異常なほど厳しい社会的・政治的・イデオロギー的に制限が加えられていた。国立大学における考古学の講座は京都帝国大学にただ一つ存在した。帝室博物館などは、美術的・珍希的品々の収集と展示の場としてのみ存在した。このような環境において研究者は、皇国史観に積極的に妥協・追随する者も出た。しかし、一方皇国史観に反対し弾圧される者もいた。その他の大勢は、思想性を抜きにして、個々の事実に対する研究に終始した。そして、ごく少数であったが、戦後の考古学に継承するに足る成果を収めるものもあった。 考古学は皇国史観歴史や日本歴史とはまったく別個の存在であったために、天皇制と軍国主義は、考古学を活用する場を探し出すことができなかった。こういう中で、考古学は「研究の自由」を保証され得たし、抑圧の中に「自由」を享受した。

それに対して、アジア各地へ出て行く日本人学者の考古学研究はどうであったか。そこには、興亜院・外務省・朝鮮総督府・当時の満州国・満鉄・関東軍の援助があった。これらの調査研究も、また、神国的・侵略的史観に抵触しない限り「自由」が保証された。中国学者と一部との合作を企画して結成された東亜考古学会も、学者のあるべき姿として評価された。考古学者自身も、純粋な研究のため、いろいろな制限からの開放を願い、進んで大陸に出かけていった。 [1]

宮崎県の西都原古墳群の発掘が県知事の発案で1912年(大正元)から東京帝国大学(黒板勝美)と京都帝国大学(喜田貞吉・浜田耕作)の合同発掘が行われた。1917年(大正6)京都大学に考古学講座がおかれた。浜田耕作を中心に基礎的な古墳研究が始まった。考古学における大正時代は、古墳研究の基礎資料の集積時代であった。

20世紀の間に、都市考古学や考古科学、のちには「救出考古学」(レスキュー・アーケオロジー、日本でいう工事に伴う緊急発掘調査を指す)の発展が重要となった。

現代考古学の特徴
現代考古学の特徴としては、他の学問分野(原子物理学、化学、地質学、土壌学、動物学、植物学、古生物学、建築学、人口統計学、冶金学、社会学、地理学、民俗学、文献学、認知科学など)との連携がいっそう進んでいること
考古データの急増や研究の深まりを反映し、対象とする事象・時代・地域・遺構の種別などによって考古学そのものの細分化や専門化が著しいこと、また、新しい研究領域が生まれていること
があげられる。

2009年01月22日

アメラジアン(Amerasian)

アメラジアン(Amerasian)とは、アメリカ人とアジア人の両親を持つ子供の事を指す。

この語は『大地』などで知られるアメリカ人作家パール・S・バック(Pearl S. Buck)が1960年に最初に使用し始めた。彼女は「パール・バック財団」などの組織や施設を建設し、米兵と現地女性との間に生まれた子らの救済に奔走した。この語は後に、アジアに派遣されたアメリカ合衆国の軍人などとアジア人女性との間の子を指す語として、アメリカの移民や帰化の部局で正式に使用されるようになった。第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争で数千数万のアメリカ系アジア人の子供がアジア諸国や太平洋の島国など各地に誕生し、その多くは混血児として各国のマイノリティとなり、時には差別の対象になった。日本(特に沖縄県)、韓国、タイ、ベトナムなどに分布し、特にフィリピンには多数のアメラジアンが暮らしている。

日本では、1998年アメラジアン・スクール・イン・オキナワ(AASO)が開校したことで沖縄県の文脈で用いられるようになった言葉であり、在日米軍の米兵と地元女性との間に生まれた子供たちのことをいう。

アメリカ合衆国司法省移民帰化局(Immigration and Naturalization Service、INS)によれば、アメラジアンとは

18歳かそれ以上、または自立した未成年者、またはこれらからの請願について外国人として処理される人物。1950年12月31日以後1982年10月22日までに朝鮮、ヴェトナム、ラオス、カンボジア、タイで、アメリカ市民を父として生まれた人物
のことである。(INSへの指示 第360号書式、「アメラジアン、未亡人、特別移民者への請願について」から) アメリカ合衆国によるこの公式定義は1982年の連邦議会での法案(Public Law 97-359)の結果によるものだが、アメリカ内では現在すべてのアジア系アメリカ人を含めて考えることも多い。

米兵とアジア人女性との子ら
もともとの定義では、アメラジアンはアジアで生まれた米軍人と現地人間の子供である。また、父がアメリカ人の沖縄県で生まれた日米に出自のある子供、父が朝鮮戦争時の米軍兵の韓国で生まれた子供なども含み、後者は1960年代にアメリカのテレビで人気を博したソープ・オペラ『Love is a Many Splendored Thing』(1955年の映画『慕情』のスピンオフ)に見られる。その他、アメリカ統治時代からベトナム戦争にかけて長い間大勢のアメリカ人がいたフィリピンでは大量のアメリカ系フィリピン人が生まれた。ベトナム戦争時には米軍の基地となったタイや南ベトナムでもアメラジアンは多い。アメリカが統治したり基地をおいた太平洋の島々におけるポリネシア人やメラネシア人、ミクロネシア人に出自のある人もアメラジアンとみなされることはある。

アメラジアンは多様な人種・民族からなっているが、メスティーソやムラートなどと同様に、ある種の共通した出自を持つ人々に対する定着した語となりつつある。アメラジアンの母がアジアのさまざまな人種・民族からなるのと同様、アメラジアンの父もさまざまな人種・民族系統からなる。
インパ バイオ せみよん センニ おいず ガポット ハムスター メシア キオス ラターシュ カム ヤール サニレレ ハブポート ダッグ ビリボ ヒロイン 草もち モーニング タイム ダイス ジントロン ラブラト パイナ 一番星 ローブプ ミング ブラッセリー ネットカー れっど サインペン トラウマ ルンバ ケナフ スローイン マネジ パプリカ タマスダレ クンシ ラッパー ソウル シャー グズベ プレゼン 元慶 インクリ オーバ バイア キャンデ レワィア

差別と不安定な立場
アジア諸国は人種的に均一な国が多く、アジアの外からはアジア人は混血児に対して排他的とのステレオタイプ的解釈がなされることもあるが、アメラジアンへの処遇にはより複雑な面がある。アジアが貧しかった時代、朝鮮戦争やベトナム戦争当時は、アメリカ兵が出入りする店で働く女性を現地妻とするアメリカ兵もおり、そこから多くの子供が生まれた。このため、アメリカ兵相手の商売をする女性への偏見が、アメラジアンと称される子供への差別につながった。またこの差別は、貧しさのために多くの女性が豊かなアメリカ人になびいたという現地の住民感情にも結びつき、母の職業がどうあれ米亜混血児全体に拡散した。

豊かになった1970年代以後の日本でも、米軍人との子を産んだことで母子が実家や親戚などから責められたり、社会に広がる反基地感情や反米感情の矛先がアメラジアンにむけられることもある。差別される子供は地元の子らと外見が違う事がいじめの対象となりうる。

日本では、1984年の国籍法改正までは子の国籍に父の側からだけ認める父系血統主義をとっていたため、父の所在の分からない子供たちは一様に無国籍児となっていた(同年、母の側の国籍も取得できるよう父母両系に改正されたため解消)。沖縄県では、父が米国などに転勤して子供が母との暮らしをしている場合、国籍がないために教育を受けられないケースもあった。また、父と同居している場合は軍から基地内で教育を受ける援助が与えられるが、父が離れると軍の援助が停止され、教育費が高く学校に行けなくなることがあった。父が米国に別の家族を持っているため渡米しにくい場合もあり、また日本語ができず義務教育で地元の学校に通うことのできない場合や、いじめが原因で地元の学校に通えない場合もあった。このため民間のアメラジアン向け学校が誕生し、こうした活動を受けて、地元自治体や日本政府も民間学校へ援助を行ったり義務教育扱いにするなどしている。

多くの国でアメラジアン支援のための運動や組織もあり、アメラジアンのアメリカ移民も続いている。一方でアメラジアンの中には(特に父が白人などの場合、フィリピンやタイなどで)俳優として人気を博する者もいる。

2009年01月15日

霊魂(れいこん)

パッチ ジベタリ ダゴン ライト スタウト 天福 クロム サマリア リポータ 東海道 バック ストイシ メディシ バレンシ みずほ セラピー シビリテ チレン ノニオン いかほ フォルム なんごう ガロール スパン あの海 マフラ めむろ ナゲット マスカ ボール パート スノー ピーケ パーセル ドオド レインボー マガジン ギャグ チェアマン 海岸通り 千年の時 シャド 白うり ティクス バトラ コボル ユーカラ キンバリー デラウ しじゅう

霊魂(れいこん)とは、一般に生物、特に人間が生きている間はその体内にあって、生命の源や精神そのものとされる、人や生物の死生観の根源的な解釈のための概念の一つ。魂(たましい)ともいう。

生物について、その肉体以外の部分を言い表す概念であり、また、肉体・精神とともに生命の三要素のうちの一つとされる。心と同一視される事もある。死ぬと肉体から離れて「あの世」(死後の世界、霊界)へ行ったり、「この世」(生者の世界、現世)に影響を及ぼしたりすると考える文化・思想も存在する。あの世に還った霊魂が、再びこの世に生まれ変わるという考えが、輪廻転生(転生輪廻)の思想である。

霊(れい、たま)もほぼ同一の概念だが、現代では死者の霊のことを指す場合が多い。また、そこに何かいると感じられるが、実体としては捉えられない現象や存在(聖霊など)のことを指すこともある。

一方、大和言葉の魂(たましい)の方は、信念や思想、あるいはその心を表現する言葉としても慣用的に使われる。

人類誕生以来、いつ頃から「霊魂」という概念が芽生えたかははっきりわかっていない。ホモ・エレクトス以前の古人類には死者を埋葬した証拠が発見されていない。ネアンデルタール人については、(一部に否定説はあるが)死者を埋葬し花を供えるなどの宗教行為を思わせる遺跡が幾つか知られており、これらの行動や文化の原動力として原初的な死生観を持ちえていた可能性があるとする解釈も主張されている。クロマニヨン人などホモ・サピエンス段階になると、より手の込んだ埋葬方法や墓制の存在がはっきりしており、食料や道具などの供物、墓の上に大石を置いたり死体の手足を縛って埋葬するといった風習もあって、原始的な宗教観念と霊魂への慕情や恐れの観念も、より明確であったと思われる。

宗教などにおける説明
多くの宗教においては、人は死んでも意識あるいはそれに近いものは霊魂となって残ると説く。霊魂は生前暮らしていた土地に鎮まるとも、黄泉のような霊魂の住まう世界に旅立つともいう。霊魂の存在は、しばしば道徳・倫理などと結びつけて語られる。キリスト教などが説くように、生前の行いに応じて天国や地獄などに送られるともいわれる。あるいはヒンドゥー教のように霊魂は生前の行いに応じて転生すると説く宗教も有る。仏教の一部(大乗仏教)でも、六道の間を輪廻すると説く。

代エジプト
古代エジプトでは、霊魂は不滅とされ、死者は復活するとされていた。オシリスが死と再生を司る神として尊崇された。 自然界のあらゆるものに霊が宿るとされ、霊にも人間と同様に感情や弱点、欠点があると考えられていた[1]。定められた呪文を唱えたり定まった儀式を行うことによって願望を神に伝えたり、動植物の霊と交流したり、病人から苦痛の原因である悪霊を追い出すことや、死者に再び魂を入れる役割の神官、祭司(魔術師)などがいた[2]。

人の魂は5つの部分から成っているとされた(アルファベット表記なら、Ren、Ba、Ka、Sheut、Ibの5つ)。死者の魂(Ba バー)のよりどころとして死者の体をミイラにして保存した。死者の魂が無事冥界に渡り、将来死者が甦るようにと、ミイラ作成期間の70日ほどの間、祭司は何度も大量の呪文を唱えた[4]。『死者の書』(死者の霊魂が肉体を離れて冥府に至るまでの過程を描いた書)が死者とともに埋葬されることもあった。 ピラミッド・テキストと呼ばれる初期の死者埋葬のテキストでは、死者が行くのは天の北にある暗黒の部分であり、そこで北極星のまわりの星とともに、霊(エジプト語でアク)として永遠の命を生きる、とされた[5]。

古代ギリシャの哲学
プラトンは対話篇において霊魂の働きに着目しつつ探求した。『パイドン』および『メノン』においては、永遠の真理(イデア)を認識する方式として想起論を提示し、その前提として霊魂不滅説を唱えた。

キリスト教など
欧州においては人間を構成する要素は霊魂(アニマ、ANIMA)、精神 (SPIRITVS) 及び肉体 (CORPVS) であり、錬金術ではこれらは三原質と結び付けられて考えられていた。また、3という数からキリスト教では三位一体に比せられることも多かった。霊魂と精神は肉体に宿り、肉体が滅びると精神と霊魂は分かれると考えられており、霊魂と精神は肉体という泉を泳ぐ二匹の魚に擬せられたこともあった。ここにおける霊魂は人間の本能のようなものであり、成長することはないと考えられていたのに対し、精神は理性のようなものであって成長するものであるとされていた。 精神の成長は人格に比例して大きくなる、という見解もある。

ヴェーダやウパニシャッド
『リグ・ヴェーダ』などのヴェーダ聖典では、人間の肉体は死とともに滅しはするものの、人間の霊魂は不滅である、とされていた。同聖典では、人間の死後に肉体を離れた霊魂は、火神アグニなどの翼に乗って、最高天ヤマの王国にたどり着き、そこで完全な身体を得る、とされた。

後のウパニシャッドにおいては、死者の魂は、解脱する人の場合は"神道"を通ってブラフマンに至り、善人の場合は祖道を通って地上に再生する、と説かれた(「二道説」と呼ばれる)。そして解脱することがウパニシャッドの目標となった。

霊魂を示す言葉としては「アス」「マナス」「プラーナ」「アートマン」といった言葉が使われた。その中でも「アートマン」はウパニシャッドの中心概念となっている。