徳川家康と明王朝
秀吉の死で幼少5歳であった息子の秀頼を五大老が補佐する体制が敷かれる。その中で台頭したのが徳川家康であった。1600年に豊後に漂着したオランダ船に乗り組んでいたヤン・ヨーステンとウィリアム・アダムスを家康は貿易・外交顧問として雇い南蛮貿易を積極的に奨励した。同1600年の関ヶ原の戦いで石田三成が率いる西軍に勝利した家康は、1603年に征夷大将軍に就任して江戸幕府を開く。太平の世の到来で高級衣料である支那絹に対する需要が増大し、明産などの輸入生糸を糸割符仲間に独占購入・販売させる糸割符制を導入、朱印船貿易を実施した。これ以後、1635年まで350隻以上の日本船が朱印状を得て海外に渡航した。明からも民間人が多数来日し、九州を中心に唐人町が形成された。しかし、かつて倭寇に苦しんだ明は日本船と明船の出入港を禁止、文禄・慶長の役で険悪関係となってからはなおさらであった。両商船は明国官憲の監視が及ばない東南アジア諸港へ合法的に赴いて彼の地で合流、「出会貿易」で明産の生糸や絹を売り買いしていた。明製品以外にも武具に使用される鮫皮や鹿皮、砂糖など東南アジア産品の輸入も行われた。日本からは銀・銅・銅銭・硫黄・刀などの工芸品が輸出された。当時、明では銀が不足していたため朱印船の主要な交易相手である明商人は銀を欲した。しかも当時、日本では石見銀山などで銀が盛産されており、決済手段として最も適していた。
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家康は将軍職の世襲制を敷いて1605年に息子の秀忠に職位を譲り、自らは大御所として振舞う。また、薩摩藩の島津氏は首里城を陥落させて琉球王国を武力制圧、廃藩置県後の琉球処分まで琉球は日明(日清)両国に属することになる。1612年に直轄領で禁教令が、翌年には全国へ適用範囲が広がった。大坂の役で「豊臣氏を滅ぼした」翌年1616年に家康は死去する。